幸せを使わないことには
友人が教えてくれた動画をシェアします。
先日、藤本満牧師の著書”
僕は若い頃に学生運動に加わってはいませんでしたが気分は左寄りでした。しかし思想的に本当にそうだったかどうかは疑問です。当時の流行みたいなものでもあった気もします。さすがに流行というのがあんまりならば時代の風くらいにしておきましょう。
そんな僕はシンガーなんていう生き方をしてきたわけですから、社会からはみ出した人間であるにも関わらずマジョリティーとして物事を考えているんだなと教えられたんです。これはちょっとショックでした。
浅井リョウさんの著書ですが、”正欲”と聞くと目をしかめる方もいると思いますが、この本もマジョリティーの本質のようなものに迫っています。内容は少しハードですから読まれるかどうかはご自分で判断なさってください。
そして今日シェアした動画”どうすれば全身全霊をかけてこの世界を生きられるだろうか”では農業革命、産業革命に匹敵するような革命が迫っていると教えています。動画を観てまず思ったのは昨今よく聞く”勝ち組、負け組”から解放されることです。そしてコミュニティーの再生です。
さてここからはグッとニッチになりましてクリスチャン世界のことです、ある友人がクリスチャン社会という言い方をしていましたが、確かに世界よりは社会の方が合っていると思うので社会を使います。
キリスト教には大別すると正教、カトリック、プロテンスタントがあります。僕はプロテスタントです。ついでに福音派です(汗)。さてこのレベルでも三つに分かれているわけですが、プロテスタントの中はさらに幾つにも分かれています。それぞれが聖書をどう信じているか、どこを強調するか等々で分かれてきたわけです。例えばバプテストでしたら浸礼とか、きよめ派ならばきよさとか・・・。特に難しいのが未来に関しての読みです。
ある意味では純粋で熱心ということが言えるかもしれませんが、気がつくと信仰が個人の内面の救いに集中してしまい。人生全体がいかにきよく生きるか・・・、みたいなことになってしまいます。それは決して悪いことではありませんが、自分のことに集中して生きるために神が人をつくられたのだろうかと思ってしまいます。自分の問題が解決したら世のため人のために生きることが大切なのではないかと思うわけです。自分がどれだけ幸せになったところで、その幸せを使わないことには本当の幸せにたどり着くことはできないでしょう。
何を言いたいのかというと、マジョリティーとマイノリティーの構図はキリスト教世界にもあると思ったことです。どちらも自分の聖書理解が正しいと議論を展開するわけですが、それで本当に良いのかということです。結局、そこに愛はあるんか?です。
どれほど聖書に詳しくても「愛」がなければ聖書のことばを虚しくしているように思います。コミュニティーの再生はキリスト教社会にも当てはまると意を強めた次第です。