本物の近視眼を
羊に戻らなくちゃと思った発端は演奏に関することからなんです。譜面や歌詞を見ながら演奏していても、そのうち覚えるということはないことはわかっています。が!覚えるという高い壁(に感じるもの)を考えると「見ちゃえ」ということになります。うまく表現できませんが、演奏を上手くそつなくこなすことが目標ならばそれでも良いのだと思います。
異なった多くのシンガーをサポートするミュージシャンはそれで良いのですが、僕はシンガーソングライターで自分の歌を歌っているわけです。なので本来それは良くないことなのだと思います。そこでこの秋から譜面や歌詞を見ないで歌うようにしています。
そうしたらとても自由で、演奏にえも言われぬ心地よさを感じるようになったんです。そこでちゃんと歌うというところから、アートとしての演奏とは?ということを考えるようになったんです。
アートなんていうとなんか偉そうですし、その中身を知ればそれが歌なんだよと呆れられるかも知れませんが、歌と音楽を聴いているだけではない跳躍と感動を、聴いてくださる方と共に味わいたいと願うようになったんです。
それはひとつには職人的に考えられる及第点のゴールを目指さずに、その時、その場所、その方々とでしか生まれないゴールを目指すとでもいうのでしょうか。簡単に言えばワクワクしたいということなのかも知れません。
ちゃんとした演奏をするのであれば、僕でもそれはそれなりに大量生産ができます。もちろんそれは質を落とすということではないので、コンサートとしてちゃんと成り立ちます。でも僕はワクワクはしないんですよね。
そこでコンサートでは、譜面や歌詞を見ないのはもちろん、今という瞬間に居続けようと思ったわけです。その瞬間の音色や空気やオーディエンスの息遣いの中に居ようと思ったんです。でもこれは考えたら危うい橋を渡っているようなものです。いつミスったり止まったりしてしまうかわかりません。そしてそんな不安を抱くだけで全てがガラガラと崩れていってしまうんです。
なので羊になって本物の近視眼を手に入れなくちゃと思ったわけなんです。そしてコンサートはコンサートの羊飼いに任せて導いてもらおうというわけなんです。そしてそうしてみた時に未だかつて来たことがない、青々とした牧場に立つことができたというわけです。なのでこれからもそんな風に羊飼いに任せて、音楽の旅を楽しませてもらおうと思っているわけなのです。
そしてそれは日々の暮らしにも広がってきて、明日死んでもそれほど悔やまないだろうなと思いながら今を生きています。悔やまないには一応「それほど」がついていますがね。
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