正しさには憐れみを
過日、トランプ大統領就任式に関連したブログを書きました。
https://makotobox.com/2025/01/21/post-13266/
このブログをFacebookとXでシェアしたところ、たくさんのコメントが寄せられました。
個々のコメントに関してはふれませんが、中には公に対談をしたいと連絡して来られた方もいらっしゃいました。その方にはブログ、Facebook、Xでのコメントでしたらなるべくお答えしますとお伝えして、対談はお断りしました。
なるべくお答えします・・・、とあいまいにしているのは、もはや僕の発言とは関係のないコメントや、どなたかのコメントへのコメントなど、僕には答えようのないコメントもあったからです。
僕の場合は炎上というレベルではありませんが、ボヤではあったなとは思いました。
そんな中Facebookで初めて知ったことがありました。それはストローマン論法という論法のことです。それを知って、今回のボヤでなんかモヤモヤしていたのはこういうことだったのかもしれないと思いました。
ストローマン論法は日本語だと藁人形論法と言うらしいです。
藁人形論法の説明にAIさんはこんな例をあげています。
子供を道路で遊ばせるのは危険だからやめた方が良い」という主張に対し、「子供を家に閉じ込めておけだなんて、ひどい意見だ」と反論する
相手が1と言うと、それに対して1.2は問題だとか、1.5なんてあまりに勉強不足だとか、こちらは1としか言っていないのに、微妙に何かを足したり、ポイントをずらしてことばを投げつけてくる。
僕が一部の方のコメントに感じた違和感はこれだと思いました。この論法の根底にあるのは議論に勝つということではないでしょうか。深めるならともかく勝ち負けのための議論は遠慮させてもらいたいと思います。
僕は若い頃から「正しすぎてはいけない」ということをどこかで意識しながら生きてきました。それは正しさは時に誘惑にもなり、刃にもなるからです。ですから正しさには憐れみがセットになっていなければいけないと思っています。
ですからもし自分で何かを正しいと思った時には、待てよ!と一拍休むことが大切でしょう。、
誰かと議論をする時は、僕自身がストロー論法に陥らないようにしないといけませんね。