愛は運ばれてくる
3月がもうそこまできています。この2月はASBのライブを皮切りに、あっという間に過ぎた感じがしています。その上ちょとしたSNSぼや騒動もあり、そのおかげでがいろいろ考えさせられもしました。
そんな中あるfacebookのコメントから「愛」についての示唆をもらうことができました。そのコメントを書かれた方は存じ上げないのですが、重い病と闘っていらっしゃる方です。現在はカナダにお住まいのようです。コメントでは「自分に病を得てからカナダでは愛を、日本では情を感じた」と書いていらっしゃったんです。
僕の長年の大きな課題のひとつは「愛」が良くわからないということでした。特にクリスチャンになって「愛」ということばがより身近になってからはさらに増大し続けてきました。「愛」が頭では理解できてもどこか腑に落ちないままできたんです。
それがこの方の「カナダでは愛を、日本では情を」のことばから大きなヒントをもらえた気がしたんです。それは僕が「情」という視点から「愛」を理解しようとしていたのではないかということです。
以前友人のアメリカ人のご主人が、愛犬が余命いくばくもないことがわかった時に安楽死をさせることを選びました。それはもちろん愛犬を苦しませないようにという気持ちから選んだことです。しかしその決断に、僕は理解はできるが腑に落ちない感がしました。犬だって死にたいとは思っていないだろうと・・・。
この安楽死の例えが「愛」について考えることに適切かどうかはわかりませんが、前者の安楽死を選ぶのが「愛」だと思ったんです。そして僕のように「死にたいとは思っていないんだから、一緒に最後まで頑張ろう」と結局苦しませてしまうのが「情」なのではないかと思いました。
「愛」は「愛」として人の感情とは別なところに在るとでもいうのでしょうか。人が共感や同情から成す行いではなく。なんの感情が伴わなくても手を差し伸べるというようなこと、とでも言えば良いでしょうか。助けることになんの感情が伴わなくても助けるのが「愛」という理解かなあ。
いやいや「愛」はそんな冷たいものじゃないと思われる方が多いかもしれません、その感覚は愛に情が混じっている「愛情」の感覚なのかもしれません。
これまで僕はまさにその「愛」と「愛情」の中間で「愛」がわからないと思い悩んでいたのだと思います。それが「愛」はあっけらかんとしていて良い。なんの理由がなくても手を差し伸ばせば良い。愛せば良い。とわかったんです。
そして「愛」は自分にあるのではなく降り注ぐようなもの、風が運んできてくれるようなものなのであることも考えました。自分には愛がないと思っていても、ある瞬間、愛が発揮される状況に置かれることがあります。だいぶ前ですが、踏切が閉まりかけているのに自転車の車輪が線路に引っかかって動けなくなってしまった方に遭遇したことがありました。僕は思わず荷物を置いて助けに入ろうとしたところで車輪が外れて事なきを得ました。
その時の僕はなぜか助けなければと思いました。そんなふうに「愛」はある出来事や状況の中に運ばれてきて人を通して発揮されるという代物なのではないのでしょうか。
だから「愛」が無いなんて思い悩む事はやめて、愛が運ばれてきた時にその「愛」に身を任せれば良いのでしょう。