分かりにくい中を歩き続ける力
ある番組を聴いていてなるほどと思ったことがありました。それは学者が一目置かれていた時代というのは、一般の人たちにはなかなか答えを出せない事柄が多かったからだと言うのです。今はネットに聞けばなんでも答えが見つかります。なので学者たちの地位も以前に比べると下がっている。このことは生活全般に及んでいて、事実僕も音楽に関してネットから沢山の情報を得て教えられています。
即座に欲しい答えが見つかることはありがたいことですが、反面ネットの情報は信頼するに値するのかという問題が常にあります。音楽に関しても、どんな人が、どんなキャリアを経て、どんなことを言っているのか、を見極めないと誤った知識を入れてしまうことになります。
そういうわけでネットの情報は信ずるに値するのかと問われれば、そうではないでしょう。しかし信じないに値するか(変な言い方ですね)というとそうでもありません。そうなるとネットは鵜呑みにできない、情報の真偽は受け取る側のリテラシーに寄るということになるわけですが、これは学者が受け持ってきた分野のいくばくか(かなりかも)を自分が受け持たなければならないということではないでしょうか。よく考えるとこれは大変なことです。
ネットのもう一つの問題は答えを見つけた時に得る快感です。そして検索をすればAIがその人の欲しい情報を示してくれるようになります。それを続けていれば自分は誰よりも真理を知っている・・・、なんて思いかねないなと思います。
それらの一つの表れとして分かりやすいこと答えがあることが良くて、分かりにくいこと答えが出しにくいことが悪いと言う風潮になってきています。しかし僕は答えは分かりにくい中にあると思っています。ですから1+1=2のような明快さを持っている事柄は安易には信じません。それは答えというものは次の質問を内包していると思っているからです。答えが「2」ではあるが「2」とは何?というようなことでしょうか。加えて大袈裟なことを言うと、生きる力とは分かりにくい中を歩き続ける力だと思っています。
最近の僕は、良く効く薬を疑うようになりました。どんな風に疑うかといえば、風邪薬ならば風邪は良くなるが他の何かが悪くなるんじゃないの?みたいなことです。薬には必ず副作用がありますが、よく効くと言うことは副作用も大きいんじゃないのかと言うことです。まあ溜飲が下がったと思った時が要注意なのかも知れないです。
少なくとも議論をしている時には、自分の正しさで誰かを傷つけているのではないかくらいのことは考えておきたいです。そんなことを偉そうに言える人間じゃありませんが・・・。だからこそ必要なことだと思います。








