CASへの思いー番外編2
クリスチャン アーティスト サポート(CAS)のクラウドファンディングも残すところ1週間あまりとなりました。現在目標額の88%を達成させていただいています。あと一息と言うところですが、最後まで目標達成を目指して頑張って行きたいと思っています。
昨日面白い言葉に出会いました。それは「妥協ができることが私たちの誇りだ」と言う意味の言葉です。妥協が誇り?なんて戸惑いを覚える表現です。とにかく「妥協しない」ことがその人の強さであり尊敬を勝ち得るこののように教えられてきましたし、ましてやアーティストの端くれとしてそれが最上で格好良いことであるとどこかで思って生きてきました。しかし現実を振り返ってみればどれだけ妥協して生きてきたのか数えられないほど妥協を重ねて生きてきたように思います。
さてここまで書いてきた妥協という言葉にはネガティブなイメージがつきまとっています。それは妥協が弱さにつながると感じるからでしょう。昨日出会った「妥協ができることが私たちの誇りだ」との言葉の肝は「誇り」です。言い換えると誇りを持って妥協しようということです。もちろん妥協の先に崩壊や堕落や失墜等々の危険や破壊的なことが待ち構えているのであれば妥協はできません。例えば戦争反対と考えている人が何かの圧力によってそれを取り下げるとしたら、それは私たちがイメージする妥協そのものでしょう。
Weblioのサイトでこんな比較を見つけました。
私たちがイメージする妥協には2番目のブロックにある「屈服する」という感覚があるのだなあと思いました。そしてもし「誇りある妥協」という言葉が成り立つのだとしたらそれは3段目のブロックにある「歩み寄り」かなと思います。それはその直前にある「譲歩」とも少しニュアンスが違うように思います。
ところでこの「妥協ができることが私たちの誇りだ」言葉を語ったのが誰かというと、オランダはアムステルダム自由大学教授のローレンス・デ・ヴリース博士です。博士は聖書翻訳に携わってこられた世界的な第一人者です。
CASはコロナによって生活に困窮や不安を覚えているアーティスト支援の為に設置をしました。私もアーティストですがコンサートが相次いで中止になっても、僅かですが教えたり、原稿を書かせていただいたりという仕事を継続させてもらっています。ですから自分は支援する側という立場に立ち続けてきました。しかし昨日「妥協ができることが私たちの誇りだ」という言葉を聞いてひとつの衝撃を受けたのです。
それはまず自分自身の内側を柔らかくしなければならないということへの気づきでした。自分は妥協をせず自分の世界を追い求めてきたアーティストなんだ、という気持ちを多かれ少なかれどこかで持ち続けてきました。「自分は違う」と言うわけです。しかしCASが次に描いているのは焚き火を囲むようにして、アーティストはもちろん、アートを支援しようとされる方々が集う場所を生み出してゆこうということです。
この焚き火の感覚をこれまで上手く表現できなかったのですが、この「妥協ができることが私たちの誇りだ」でピンときたのです。最上の妥協ができる場所。それで良いのだと思ったわけです。そしてそのためにはまず自分自身がほんの少しでも何者かであるように思っていることを省みて、何者でもない、というところにしっかりと方向転換する必要があると気づいたわけです。
自分自身を高めることは素晴らしいことです。しかし自分が到達した高みがあるとして、それを周囲との違いによって測り確認しようとすることとは大きく違います。自分自身に関して言えば、ギターが上手いとか、癒し系のシンガーだ、とか言う評価を無自覚に「そうだ!」と受け入れてきている自分を省みなければと思ったんです。
CASは誰かのために始めたと思っていましたが、今それが自分のところへ帰ってきました。期せずして出会った「妥協ができることが私たちの誇りだ」という言葉は忘れられない言葉になりました。そしてこれからは「誇りある妥協」について思い巡らす人生が始まるんだなと思っています。
もうじきCASが開拓しようとしている新しい村の名前が決まります。