優しさの半分は知識

Twitterである投稿を見てから以前俳優であった高知東生さんをフォローするようになりました。

高知さんと言えば覚醒剤と大麻所持容疑で逮捕されて芸能界を引退された方というイメージですが、その後は依存症の自助グループに参加され、現在は依存症の啓発や予防教育のイベントなどで講演活動をされているようです。

その高知さんのツイッターにこんな言葉があって心に留まりました。それは「優しさの半分は知識」という言葉です。

「優しさの半分は知識」。この言葉からいろいろ考えさせられました。まず時々耳にする精神論っていうのはひょっとしたらこれに関わりがあるかもしれないと思いました。例えば「みんなの力を合わせればコロナに打ち勝てる・・・」みたいなものです。一瞬そうかもしれないと思いますが、よく考えると心を合わせても、と言いますか心を合わせるって何?一眼になるって何?と思います。

これをグッと身近に引き寄せると自分が、授かっているキリスト教信仰にも及びます。クリスチャンの間では「信じていれば大丈夫だよ」的な言葉はそれほど珍しい言葉ではありません。確かに神様は一人ひとりに最善を導いてくださるのですからこれの全てが間違いではありませんが、聖書が語り続ける「愛」ということとは多少?かなり?かけ離れた感じを受ける言葉のように思います。

それはこの言葉が会話の中で、文章で言えば句読点のように使われ、もう話はこれくらいにしようという意味合いが含まれているようにも思うからです。その先は思考停止ということです。こんな風に感じる僕がひねくれすぎているのかもしれませんが(汗)。

ここで「優しさの半分は知識」という言葉は「愛の半分は知識」にしても成り立つのかなと思いました。どんなに素晴らしい真理も知るべきことを知らなければそれは優しさや愛として反映されないのではないかということです。

今日は世界中のクリスチャンが礼拝を捧げる週の始まりの日です。改めて聖書をキリストを知りたいと思わされた朝になりました。

日記

Posted by buchi