アクセルとブレーキで考えた
自分の中にもその種があって、気をつけていようと思っていることに二元論があります。僕の中には、良いか悪いか、好きか嫌いか等々、どちらかに極端に振れてしまいがちなメンタリティーが潜んでいます。なぜならばその方が簡単だからです。
今朝ある番組を観ていたら田中康夫さんが二元論に振れていましたが、その視点が面白く新鮮でした。それは車の運転システムに関してのことでした。
日本ではオートマチックが一般的でオートマ限定の免許まであります。僕もここ20年くらいはオートマ車しか乗っていません。ところがオートマが多い国は日本とアメリカぐらいで、ヨーロッパはマニュアル車が圧倒的に多いとのことでした。これにはにわかに信じられないくらい驚きました。
それのどこが二元論と関係するのかですが、オートマはアクセルとブレーキで操作しますが、マニュアル車はアクセルとブレーキの他にクラッチがあります。それがどうしたと言われそうですが、例えば最近のコロナ関連の国の政策を見ていてもアクセルかブレーキかの、どちらか論に終始しているようにも思います。あるいはアクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるような感じさえします(もしそうならばそのうちブレーキが焼けて効かなくなってしまいますよね)。
クラッチを踏むことはこのアクセルとブレーキを同時に踏んでいるのとは違って、次はどのギヤで走るのかを明確に判断するということです。
人間というものは日常の何気ないことから学び続けていることが案外多いのではないでしょうか。アクセルとブレーキの暮らしに慣れきっている僕たちは、クラッチを切るという選択肢を思いつかないメンタリティーに傾いているのかもしれないと思いました。そしてもしそれが二元論的なメンタリティーを育てている一端を担っているとしたら考えものだなあと思いました。
でもAかBをはっきりさせないと物事が進まないじゃないかと言われる方もいらっしゃるでしょう。しかし普通AとBには間隔があるものです。音楽でいうA’やA”があるのではないでしょうか。
以前のブログに、もし僕が「絶対」とか「必ず」というようなことばを発するようになったら危ない!と書いたことがあります。それはそもそも僕たちは絶対、や必ず、には至ってはいないし、至ることがない存在なのではないでしょうか。
例えば今僕はマグカップでお茶を飲んでいますがこのマグカップは絶対的にマグカップではありません。もし落として割れれば割れたマグカップになります。それはそのうちかけらと呼ばれるでしょう。
車を運転すれば赤信号で止まり青で進みますが、交通法規が改正されれば逆になることもあり得ます。今日はこれを食べたいと思い、明日はあれを食べたいと思う僕自身が常に変わり続けている存在です。実のところ世界はAとB以外の中間的だったり途上的なものでできているのではないでしょうか。
これからは車を運転する度に二元論について思いめぐらしそうです。もちろん赤では止まって青信号になってからアクセルを踏むようにします。でもあまりに明確過ぎる答えや教えには距離を置いていたいと考えています。