ギターを教えなくても良いんです

東京キリスト教大学でギターを教え始めて10年目の春になるようです。僕が大学と名のつくところで教えるなんて考えたこともありませんでしたが、人生には不思議がいっぱいです。

コロナ禍ではレッスンのほとんどがオンラインでしたが、昨年の12月から対面とオンラインとのハイブリッドになり。この春からは本格的に対面レッスンの再開となりました。

今日がその初日ですが感染対策その他の配慮もいただき、レッスン回数を半分にしてレッスン時間を倍にしての再開となりました。倍と言っても40分なので僕のレッスンのやり方からするとちょうど良かったりします。

東京キリスト教大学で10年。それ以前にも10年近く、そして若い頃にも教えていたことがあるので、人生全体でみるとけっこう教えることが多かったなあと思います。

しかし白状すると教えれば教えるほど教えることが難しくなってきます。それは多分教えたことの実を見たくなるからでしょう。正直教えた学生が実を結んでいるとしても、その様子を見ることはできません。どこかで「果たしてこんな教え方で良かったのか・・・、もっともっと適切な教え方があったんじゃないか・・・」と悶々とすることも少なくありません。

そして現在は教えることも手放すとでも言いますか、自分がこれまであれやこれや考えてきたメソッド(なんて言えるようなものではありませんが)を手放して受講者と向き合うという心境に至っています。極端に言いますとギターを教えなくても良いんです。それはギターを弾き続けて生きてきた人を感じ取ってもらうことでも良いんです。

この「人」が自分のことですから偉そうな言い方に聴こえるかもしれませんが、僕がお手本ということではなく。人間としての過不足も含めた僕を感じてもらい、どうしてこの男はこうしてギターを弾き続けているのか・・・を垣間見てもらえたら、それが受講者の動機に影響を及ぼすのではないかと勝手に期待しているわけです。

しかしどうぞご安心ください。最初から教えないぞ!なんて思ってはいませんからね。教えますから(笑)。でもギターを弾かないレッスンがあっても良いんだということであります。