CASへの思い9ーセミナリヨ

大昔現代の神学校のことはセミナリヨと呼ばれていました。そこでは聖書はもちろんラテン語や日本の文学等も学んでいたようです。私が驚いたのは科目の中に音楽があったことです。当時の日本で西洋音楽を学べる場所は皆無だったでしょうから珍しく貴重な学びだったことでしょう。このセミナリヨの教育からわかることはキリスト教にとって音楽(広義においては芸術と言っても良いでしょう)は欠かすことのできないものであると言うことです。

私は2012年から東京キリスト教大学の音楽アカデミーでギターとウクレレを教えるようになりました。自分がそのような場所で教えることになるとは思っていなかったので声をかけていただいた時には本当に驚きました。

その中でひとつ感じたことがありました。それは音楽は音楽専攻生だけが学べば良いものではなく、将来牧師やリーダー等の人前で話すようになる学生にも必須だということです。キリスト教を伝え教えるための話(メッセージ、説教、証)は、例え話を除けば聖書のことばをひもとくのですから話し手によって内容がそれほど大きく違うわけではありません。しかしよく知っている聖書のことばからの話だったとしても、感動するものもあればそうでないものもあります。それは聞き手の問題だと言われることもありますし、それもゼロではないと思いますが、私はこの違いは音楽だ!と思っています。

もうひとつ別の話をします。同じ歌を聴いても心に届く歌とそうでない歌があります。意味のわかる日本語で歌われていても違いがあります。レッスンで歌として伝わってこない人に私が言うのは、歌詞をスキャットではなく日本語にしなさいと言うことです。意味は言葉として発せられない歌詞はただのスキャットでしかないと言うことです。例えば「私はあなたを愛している」と歌ってもそれが言葉化されていなければ「タタタタルルルルアララララ・・・」と何ら変わらないのです。言葉の意味はわかりますが感動も何も起こりません。

おそらく話すと言うことにもこの歌と同じようなことが起きているのではないでしょうか。意味はわかっても伝わらない。人の心を動かすものは「わかる」だけではないのです。私は人の心を動かす何かが音楽だと思っているわけです。それが旋律なのか、和音なのか、リズムなのか、音色なのか、構成なのか、どれかひとつを選ぶことはできませんが、これらが調和して行く時に感動が生まれるのだと思っています。

前置きが長くなりましたがCASではセミナリヨ的な学びの場を作れたらと願っています。キリスト教音楽と言っても現代ではポップスも含め多種多様になっています。しかしそれらを結ぶ柱は変わらないはずです。芸術家が聖書を学ぶ、教職者が音楽を学ぶ・・・、そんな場が生まれたら楽しそうです。そして芸術家と教職者が一緒にオーケストラやバンドを組んだら・・・と妄想は膨らみます。

言葉では伝えきれないところに芸術は存在しています。そしてそれら芸術は言葉によって喚起され命を持つのでしょう。

セミナリヨ。今ならどう言う名前にするのが良いのでしょうか。

CAS, 日記

Posted by buchi