CASへの思いー番外編
番外編?まだあるのかと呆れていらっしゃる方が多いのではないかと思いつつ、ここまででうっかり抜けていたことを追加させてください。それは著作権に関してです。「ああ!お金の話ね」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんがそうではありません。
上の画像はこちらのサイトからお借りしました。ぜひお訪ねください。
著作権のことを言い出す人、特に全てが神から与えられていると分かっているクリスチャンがそれを言い出すことに対して批判的な空気があることは感じています。しかしひとつ誤解されているのは著作権というものは作品が生まれ出た時に自然的に発生しているということです。ですからすべての作品に著作権はあるわけです。普段問題になるのはその著作権を主張することに関してということになります。
そこで著作権について改めて考えてみましょう。まず著作権の持っているひとつの効力は第三者がその作品に勝手に手を加えてはいけないということです。ある時こんなことがありました。ある教会へ伺った時のこと、その教会の方が「岩渕さんの作った1番だけの賛美歌に2番と3番を加えて歌っているんですよ」と言われました。正直あまり良い気はしません。作者としては2番、3番が必要ならば、あるいは生まれてきたのならばそのような構成にしているからです。
これはどちらかというと替え歌に近いものです。作品が作品である、ことはそれがゼロから生まれてきたということです。もちろん私もクリスチャンになってからはそれらを神さまが与えてくださっているということを忘れてはいません。しかしその曲は、神様が誰にでも与えられるというものではないんです。ある人を用いて形にされているとすれば私たちはその「ある人」に多少の敬意の気持ちを持っても良いのではないかと思います。
自分自身で作曲をしている私がこんなことを書くのは厚顔無恥なことかもしれませんが、誰かが言っておかなければいけないと思うようになったので書いています。CASなどという荒唐無稽にも思えることを始めるに至ったのも同じなのですが、こういうことはある程度年齢と経験を重ねた誰かが担わなければいけないことなのだと思っています。
さて教会の礼拝で捧げる賛美歌の著作権が管理されていて、礼拝で歌っているのにそこになにがしかの料金が派生することに抵抗感を持たれることはよく理解できます。ただ私がシンプルに不思議に思うのは礼拝のために使っている電気料金に意義を唱える方はいません。しかしその電気を使って映し出している賛美歌の歌詞や歌唱に支払いが生じるとなると腑に落ちない気持ちになる・・・。これは賛美歌やその作家達は光や空気と同じレベルに格上げになっていると喜ぶべきなのでしょうか・・・。すみません言葉が過ぎました(汗)。
著作物の使用料として支払われたものは管理団体と作家に分配されます。これは実演活動をしない作家にとっては唯一の収入源なのです。もしこれに異を唱えられたらば作家という職業は存在できなくなります。逆に考えれば著作権料を支払うことは作家を守り育て、文化を支えることになっているのです。
最後に、賛美歌作家として生活ができている人は海外ならばいらっしゃるでしょうが、日本では皆無です。日本の教会で誰もが知っている、あるいは歌ったことのある日本生まれの曲の作家でも、手元に届くお金は微々たるものでとても生活ができるようなものではありません。ある意味皆さんよくやっていらっしゃると思います。
CASでは著作権のことも学びながら、使用者と作家が互いに良い関係を構築し、理解し合い、著作権を互いにとっての「良いもの」として受け取りながら、キリスト教文化の発展につながっていけばと願っています。
著作権。実は知っているようで知らないことが多い分野です。どうぞご意見などお寄せください。一緒に学び合い、高め合えたらと願います。