外でもなく内でもない縁側

昨晩はアリシアの森で「村長のテーマトークお茶会」がありました。村長というのは僕のことなのですが、それはアリシアの森の責任者ということでありまして、このお茶会は僕がしゃべりたいことをしゃべって聴いてもらう会ではありません。僕はズームをオープンして司会を務め、全体を録音して後日編集してアーカイブにアップする音源を作るという、一応地味?な役割です。

テーマトークお茶会も毎月開催してきて1年半になろうとしています。現在のテーマトークは「クリスチャンと隣人(となりびと)」で吉村和記さん(インマヌエル久留米キリスト教会牧師)が担当してくださり20分弱のお話を準備してくださっています。ちなみに僕が主催するお茶会ではそれぞれの職務に関わらず敬称は「さん」ということになっています。これはある牧師の方の発案からそうなりましたが、多分1年以上続いていると思います。

昨晩は「隣人との距離感」というテーマで吉村さんがお話しくださいました。買い物をしている自分が店員さんが近づいてくると拒否するが、ある眼鏡屋さんで店員さんの見事な対応に思わず買ってしまった・・・、などなどちょっとした違いでこちらの気持ちが変化する不思議を考えさせられました。

吉村さんがお話しくださった後は参加者の方が自由に発言してくださるのですが、その内容も次第に深まってゆきラスト30分あたりから「なるほど・・・」と頷いたりハッとさせられたりの連続となります。

昨日は「縁側」の話をしてくださった方がいらっしゃって、日本文化の縁側には外でもなく中でもない独特の世界観があることを教えられました。建物もそうですが、ひょっとしたら僕たち自身にも縁側が必要なのかもと思わせられました。

さらにミュージシャンの方が、コンサートは縁側だと思っている、ということを話してくださり、僕的には縁側がさらにグッと近づいてきました。

「外」でもなく「内」でもない縁側。

ある方が昔実家の縁側にテレビを置いて近所の人たちも一緒になって相撲を観ていたことがあるとおっしゃっていました。

しばらくは縁側のことを考えそうです。

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