ラーゲリより愛を込めて

昨夜「ラーゲリより愛を込めて」を観ました。ラーゲリとはシベリアの強制収容所のことです。第二次世界大戦後にシベリアの強制収容所に収監された日本人捕虜たちの話です。映画の内容には細かく触れませんが、自由のない収容所生活でも希望を語りつつ、さまざまなことにチャレンジした主人公のことが描かれています。

全体を貫いていることのひとつが「卑怯者」ということのように感じました。自分の信じる真実を曲げて物事に屈するかどうかということです。収容所などという特殊な環境下において生きるためには「卑怯」であることは否定しません。ましてや自分自身が卑怯者には決してならない・・・、などと思っているわけでもありません。

収容所に正当な理由がなく収監されている捕虜も、その捕虜を見張っているソ連の兵隊たちも、そこに自分の思う正義を見出すことは困難でしょう。それは戦争の当事者ではないからです。戦ってはきましたが当事者はそれぞれの国です。いや自分の意思で戦っているんだと言う兵隊もいることと思いますが、それはそう国から教えられてきたからでしょう。

ラーゲリより愛を込めての主人公の山本さんは、そんな中で正義ではなく道義に生きました。道義で検索すると「人のふみ行うべき正しい道」とありました。同じく正義を検索してみるとこのようでした。1:人の道にかなっていて正しいこと。2: 正しい意義。また、正しい解釈。3: 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。

聖書のことばで僕が若い頃から大切にしてきたことばがあります。それは ーあなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。ー です。正しさは過ぎる時に凶器になることがあります。正しさが権力と結びつくときには恐ろしいことが起きることがあります。僕はクリスチャンですがキリスト教も過去に酷いことをしてきた歴史を抱えています。今もかもしれません。

数学者である岡潔さんは、道義の根本は「人の悲しみがわかるということにある」と言われたようです。人の悲しみや痛みがわからない、あるいは知らないこと、無いことにしている人の正義ほど怖いものはありません。だから正義だからと言われたからといってそうして良いかどうかは考えなければいけないと思います。

「ラーゲリより愛を込めて」からもうひとつ教えられたことは、たとえ小さくても痛みを通り抜けた道義は実るという希望です。僕も自分の正しさを見直してみようかと思います。そして戦争は絶対起こしてはならないのだということを肝に命じたいと思います。ふと加川良さんの「教訓」を思い出しました。3番は今時物議を醸し出すかもしれませんが。