正しすぎてはならない

1日の能登地震に続いて2日の羽田の事故と続き、とんでもない新年となりました。海上保安庁の飛行機は支援物資を運ぶ任務中での事故で、能登での地震がなければこの事故もなかったでしょう。

私たちの暮らしている世界は様々な関わりの中で形作られているんだなと感じています。何かの事情でどちらかの飛行機の動きが数分ずれていればこんなことにはならなかったでしょう。

今年に入って岩本遠億さんの「366日元気が出る聖書のことば」を読んで夫婦で祈るようになりました。その日その日の聖書のみことばと、そのみことばからの観想が書かれています。今日のタイトルは「キリストにあって喪中なし」でした。闘病中の妻と一緒に読むのでタイトルを目にして一瞬大丈夫かなと心配しましたが、もちろん大丈夫どころか励ましをいただきました。

私たちの伝統では正月は五穀豊穣の神を迎えるお祝いです。喪中にはお祝い事を避けるので年賀状も出さないということのようです。

今朝の聖書の箇所は「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみにによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。イザヤ書63:9」

妻の病が見つかってからというものとても苦しい日々を過ごしています。そして妻は僕の何千倍も苦しんでいるかと思うだけで言葉がなくなります。今朝はこの聖書の箇所を声に出しながら、思わず詰まって読めなくなってしまいました。

時に人は「病になったのは罪のせいじゃない」とか「病が癒やされないのは罪のせいじゃない」という投げかけをしてきますが、主が共に苦しんでくださり、ご自身の救いの使いを届けてくださるというこのみことばに励ましをもらいます。それでもさらに「主は罪のない人に対してそうしてくださるんだよ」というエコーが響いてくるようです。自分もクリスチャンですが時々クリスチャンが怖くなる時があります。聖書には正しすぎてはいけない、とあります。どんな正しさも人を救ってはくれません。救ってくれるのは究極「愛」なのでしょう。

今回の震災も航空機も航空機事故もとても辛く悲しく苦しい出来事です。しかし間違ってもそれが罪のせいなどと口にしてはいけません。もし仮にそれが自然破壊や自己中心や利益追求主義等々の人間の罪と呼びたくなる事柄に起因しているとしても、僕たち自身がこれまでそれを許してきているとも言えるわけですから。

ごめんなさいノイローゼになったような文章ですね・・・。

「正しすぎてはならない」という聖書のことばは20代の頃からいつも心にあります。人は右か左かどっちかの方が安心する傾向があります。でもほとんどの事柄はどっちかではないですよね。あ!また理屈っぽくなりそうです。

震災で被災されたお一人おひとり、航空機事故に巻き込まれたお一人おひとりに、神からの助けが届きますように。救いが届きますように。

お願いします。