クリスチャンとゴジラ

このブログを読んでくださっている皆さまは「アリシアの森」というオンライン交流サイトのことはご存知だと思います。

アリシアの森を始めてから3年が経っていますが、継続してくる中での大きな課題はサイトの趣旨を理解していただくことでした。理念として掲げているのは「クリスチャン文化の振興」ということですが、これだけでは「?」です。しかもクリスチャンと付いているいるところがクリスチャンではない方にとっては無関係な感じですし、ひょっとするとクリスチャンたちの自分たち中心の文化振興って何?、下手すると胡散臭いとも思われかねないところがあります。

僕はアリシアの森の村長なんですがまさに力不足村長の代表で、自分で立ちあげておきながら理路整然と明快にその意義を語ることができてこなかったとを大いに反省しています。実はボランティアで関わってくださっているスタッフの皆さんにも伝えきれていないので、本当に申し訳ないなと思っています。しかしそのフタッフの皆さんも「?」を持ちながら、ここまで支えてきてくれたことに大感謝をしています。

まず「クリスチャン文化の振興」のクリスチャンについてですが、僕は以前、人前で「僕はクリスチャンです」と表明することに違和感を覚えていました。普通日本の暮らしの中で「僕は仏教徒です」と表明するのをあまり聞かないように、何気に信仰を表明するってそれだけでも浮く感じがしますよね。しかしクリスチャン文化の中には「時が良くても悪くても福音を宣べ伝えなさい」とか「旗印を鮮明にしなさい」等の教えがありますので、クリスチャンと名のることは推奨される行為だとされてきました。でも何か違和感を感じていたんです。

その違和感の理由がわかった時がありました。それは信仰を個人的に受け止めていたということです。例えば信仰とは自分が救われ、きよくされ、永遠のいのちをいただき、天国に行くんだ・・・、というのは個人的な話で、他の人にとっては関係のない話です。だから周囲はそれを言われてもなあ・・・、と感じるのではないかと思います。少なくとも僕はそんな風に思われるだろうなあと感じていました。

ところが10数年ほど前からいろいろと気づきが与えられ、信仰は個人なものではなく(個人から始まりますが)世界のために役立つものなんだというように変化してきたのです。他者のために役立つことならばクリスチャンと表明することの意味合いがちょっと違ってきます。まあ言ってみればクリスチャンとはお役に立てる人たちということでしょうか。なのでクリスチャン文化振興というのはクリスチャンとは縁遠い方々にとっても有益である可能性があるということです。そしてクリスチャンがお役に立てる人たちであればその人たちの文化振興は皆さんにとっても良いことのはずです。ということで「クリスチャンの文化振興」なんて言っているわけです。またまた理屈っぽくてすみません。

というわけでアリシアの森は僕の森ではなくみんなの森になって欲しいわけですが、森での活動方法のサンプルになればと思って始めた村長のお茶会(zoom)も、なかなか他へと広がっていくことができずにいました。逆により僕の森っぽく見えてしまう面も出ていたのです。

そんな中昨年末には妻の闘病のことがあり、森の活動を一時休止しようかということにもなりかけたのですが、その時に一縷の望みでお茶会に参加してくださっている方々に僕の役割を担ってもらえないかと打診したんです。そうしたらありがたいことに引き受けてくださる方が現れて現在まで継続することができているんです。そうして振り返ってみれば、それまでなかなか越えられなかった壁も越えることができてきたんです。

これらは妻の闘病という辛い大きな負からの出来事ですが、そのような中にも咲いてくれる花があることを教えられました。

前置きが(前置きなんかい・・・)長くなってしまいましたが、明日のテーマトークお茶会から司会進行を大阪の関恵嗣さんにお願いしています。そして今月から6回に亘ってのテーマが「クリスチャンとゴジラ―怪獣たちから見える世界ー」です。プレゼンターは濱和弘さん(小金井福音キリスト教会/相模原キリスト教会牧師)(アリシアでは職種立場に関わらず敬称はさんになってきています)です。第1回目のテーマは「ゴジラが愚痴る人間のわがままーゴジラが愚痴る教会の姿」です。気楽に遊びに来てください。お待ちしています。もちろん僕もできる限り顔を出します。興味のある方はアリシアの森のカフェからお入りください。